昭和五十六年三月二十一日 朝の御理解
御理解第九十九節 「無学で人が助けられぬということはない。学問はあっても真がなければ人は助からぬ。学者が身を食うということがある。学問があっても難儀をしておる者がある。此方は無学でも皆おかげを受けておる」
「合楽理念を以てする他なし」と。まあ合楽で合楽理念の修行を本気で取り組んでいる人たちはそういうふうに申します。○○は合楽理念を以てする他はない。その合楽理念は真だからです。その合楽理念で申します「真」。いわゆる「真実」。
それを少しばかりの学問があったり致しますと、それをまあ色々と批判をしたりするような、結局それを学問的に、または常識的に見ようとするからおかげにならんのです。真で人が助からんことはない。学問があってもなくても同じですけれども、真がなければ人が助からん。
例えば、南米の今のあの布教の状態。例えば「あちらへ行くなら、あちらの言葉が分からなければ布教は出来ん」と本部ではもう断言しておられました。その当時の布教の布教部長先生ですかね。
ですけれども、私は、その当時に言葉はいらん。それこそ真があれば人が助かる。黒人もなからなければ白人もない。真があれば助かる。助かれば人が集まる。もちろん言葉は覚えんでもよいということじゃない。「それからぼちぼち言葉も覚えて行けばそれで良い」というふうに言うのも、ここの所の理屈と同じじゃないでしょうかね。それでもやっぱり真には真があればとおっしゃるのですから。人が助かる。そのだから真を追求して行かなければいけんのです。
その真を追求するということになると、合楽理念になってくるんです。だから合楽理念は真です。その合楽理念を実験実証すれば、結局「真」真心を現して行くことになるのです。合楽理念とはそんなもん。だから、「何何は合楽理念を以てする他はない」。それに少しばかりの常識を入れたり、自分の勉強しておった学問を入れたりするから、そこに変なことになってしまう。いわゆるすっきりとしたおかげになってこないのです。
私は、皆さんその意味を間違えてはなりませんけれども、この頃御神前でお詫びをするということがなくなったんです。もうお願いとお礼だけです。ほう、そんならそのちょっと聞くとね、大変こう思い上がった様にありますけれども、それは私の信心内容が変わってきたから、お詫びを、今まではお詫びをしよったことの中に、お礼を申し上げねばならないことが分かってきたからです。だからもうお礼ばっかり。ところが、ここに思いますのは、その言うなら願い以上のおかげを頂きながら、お礼を申しておるけれども、そのお礼が足りんことに気が付いております。
私は改めて、三代金光様のあの御述懐のお言葉ですね。「初めのうちは辛うて辛うてよう泣いた」と仰せられるあの御述懐のお言葉から思いますのに、最後の所にね、「お礼の足りんお詫びばかり致しております」というところがあります。一番最後ん所。私はその意味が分かりませんでした。信心が段々、なら少しづつ分からせて頂く、まあ深くならせて頂くに従って、三代金光様が仰せられておる、「お礼の足りんお詫びばかり致しております」だからもうお礼ばかり。
ところが、なら私が思いますことは、その私自身もね、もう私の信心にはお詫びはない。けれどもお願いとお礼。ところが、その願いの言うならば迫力のないこと。真の願いが出来てないこと。同時に真のお礼が出来ていないこと。そのお礼の足りない、願いの真に力のない願いであったり、お礼の足りないということに対してお詫びはしております。
ただ、自分が日々の生活の中に、今までは様々な、例えば信者の中にまあおかげを落とした人がありますと、「私の信心が足りませんでしたから」というようなお詫びにこうしたもんですけれども、そのおかげを落としたそのこと自体も実はおかげであると気付かせて頂いて、お礼より他にないことになって来たんです。
ですから、私の信心にはお詫びはない。今まで過去で言うて来ておったようなお詫びはない。但し、お礼の足りないお詫びであり、願いの言うならば、真の願いが出来ていないことのお詫びをさせて頂いとります。
もし私に少しばかりの学問があったら、今のような心の状態は開けてこないと思う。おそらく学問が邪魔をするだろうとこう思う。ところが、おかげで無学であったおかげで、三代金光様がではなかろうかと。三代金光様もこういうようなお心の状態じゃなかったろうかと。今まで分からなかったことが段々分かってくるようになってきた。
私は今朝方お夢を頂いて、私が、あの三味線を弾いておる。ところが、まあ大変、まあプロの方で長唄の師匠か何かと言われるような感じの方が、私の三味線を聞いてから、鼻で笑うような、素人がというようなわけなんです。そしてそのお師匠さんという方が弾かれたのが、もうそりゃあ何とも、それこそ奮い付きたいような素晴らしい音色であった。
だから私もそのプロになろうというわけでもないけれども、その教えを請うておったけれども、なかなか教えようとはなさらなかった。そして言われることに、「ならあんたの弾いておることが間違いじゃあない。確かにツボツボをちゃんと教えて、言うなら曲を奏でてはおるけれどもね、三味線にはツボの中のツボがある」と言われた。
私はこれを聞かせて頂いて、そんならすぐ私の心ん中に悟ったものがあった。成程ツボを押さえとるだけじゃいかん。ツボの中にもまたツボがあるんだと。そしてその「教えて下さい」と私が言うもんですから、「そんなら一回だけ弾いてあげましょう」と言うて、あんな曲を聞いたこともないですけども、長唄の合いの手のような曲を、短い曲をもうそれこそ見事に弾かれた。
そして私に言われることが、「今のを弾いてみれ」とこう言われる。もうそんなに覚えておるはずはないけれども、まあ一心にそれを見ておりましたから、それをどうやらこうやら弾いた。そして弾きながらツボの中のツボを求めて弾いておる自分に気が付いて、まあ大変なことを習うたもんじゃあと思うて目が覚めた。
信心もね、一通りのことを覚えるということは、一通りのツボを覚えると同じです。だから出来るのです。けれどもね、ツボの中のツボを、言うならば何ちゅうでしょうか。一つの霊感ですね。弾きながらさっとこうツボん中のツボを押さえて行けれる信心。
信心もやっぱり同じことが言えれる。合楽理念を皆さんがマスターする。分かっとると言うなら、私と同じに分かっておる方は沢山ありましょう。だからこげん時にゃあこう。合楽理念を以てすればこうと。こういう時にはこう行かなきゃならんと分かっておっても音色が違う。私の弾くのと皆さんが弾くのと音色が違うのは、私がツボの中のツボを押さえているからじゃあないかと言うふうに今朝から思わせて頂いて。
この九十九節でしたから、無学であったおかげで、私はそういう言うなら一つの転換も、これはもう教えたから分かるというものではない。一つのまあインスピレーションである。霊感である。が段々強くなってきたのも、私のその霊感を邪魔する、言うなら人間的常識とか学問とかというようなものがなかったから、おかげで言うならば合楽理念も生まれたし、合楽理念を以てする他はないと。
「海外布教は絶対言葉が分からなければ海外布教が出来ることじゃない」と言われたけれども、私はそれを聞いた時に、まあもちろん言い訳はしませんでしたけれども。そんな、帰ってから末永先生に「そげなこつはないよ」と。「それこそ真さえあれば人は助かるよ」と。「合楽理念を持って行くならば、人は助かるよ」と言うてまいりましたが、事実その通りでしょうが。
ですから、合楽理念はそのように素晴らしいもの。言うならば、ここで、「真がなければ人が助からん」とおっしゃる「真」。合楽理念は真である。真そのままである。そのものである。
それをまあ現代金光教風に言うと、まあ例えば、この頃から末永先生の公子先生がお産の時に、全然腹帯もしなかったし、お医者、産婦人科の先生にも診てもらわなかった。今時そういうことを言うたら、もうそれこそ大向こうから反対を受けることでしょう。
けれども、ならおかげはどういうことかというと、それこそ難産の苦しみとかお産の苦しみなんとか全然、夢の中で安産のおかげを頂いておる。こういうことなんかが、こういう例によく似た話が合楽理念の中には沢山あるんです。けどもそれが真なんです。
本当は少しばかりの現代的な、まあ素人でも知っとるような医学的なことを、こういう時にはこうせにゃならんというようなことを知っとるもんだから、なかなかそこん所に危険を感じて恐れをなす。なして本当なことが出来ないのです。
いわゆる本当の本当のことを分からして頂くためには、私どもの言うなら勉強してきた学問とか常識というものはいらない。そしてそういう体験を頂いて、真を体得して、その先に学問があることは、ならばその学問もまた邪魔にはならないということになりますでしょうね。
どうぞ。